【六根清浄】
五月の連休を利用して，ひたすら東海道を歩いて見たいと思った．
電車で移動し，一日歩いて帰る．たどりついたポイントへ翌日引き返し，また，その 駅から歩くことを繰り返す．これを一週間続けて見ようと思った．
家内に気配を勘づかれたら出発しずらくなる．何も持たず，メモ帳一冊を胸ポケット に家を出ることにした．外は春から夏への新緑でいっぱい．
眼に青葉を焼きつけ，耳に葉音のささやきを受け，鼻に野山の香りを吸い，舌に青い 草の茎を味わい，身を五月の薫風にさらしつつ，意に永遠に消えない心象風景を写し たい．夢がいつも帰っていくような，山の麓の小さな村に出会いたい．
「五月のそよかぜをゼリーにして届けて下さい．」
立原道造が，見舞い客に託した，限りなく美しい絶唱．それを満身に受けて歩ける 幸福は，万人に開かれている．
【ぬけたとさ】
どんな勤め人にも，漂白願望がある．普段聞かれたら，私は違うと平然と優等生の 応えを返す人にも．心の奥深くに山頭火が生きている．いや生きているに違いない．
「分け入っても分け入っても青い山」
山頭火の歌を待つまでも無くそれが男のロマンなのだ．
「もっと遠く」「もっと広く」
南北アメリカ大陸を縦断して見せた，開高健の釣り三昧の旅行記に，私は何度慰めら れたことだろう．
「ぬけたとさ」
あのお伊勢参りに沸き立った群衆の発した，この生き生きした言葉．これこそが突然 の旅の醍醐味なのだ．家内には，何も告げず，ふらっと家を出る．そこに疑似漂白体 験がある．いや，ひょっとすると，そのまま漂白するかも知れない私がいる．バカバカしいマンガ週刊誌を手にして乗車した．そのマンガさえ，すぐに放り出し， 車窓からの景色に見とれる．見慣れたはずの景色が始めて見るように感じられた．
そうだ．今日は，出張じゃ無い．どこで下りたって良いんだ．そう思うと，ぼーっと して，心地良い解放感が体一杯に広がって行く．
まだ連休も始まったばかりの５月２日のことであった．
【旅立ちは掛川】
この計画を思いついた時からしばらく，東海道の, どの宿場から歩き始めるかで迷 いに迷った．日本橋は最初に諦めた．途中の手頃な駅から名古屋へ向かい，京まで踏 破するコースなら可能だと基本プランを固めるまでは，スムーズだった．折から杉浦 明平さんの「東海道五十三次抄」が出版され，それを読むにつけ胸はワクワクしてく るのだが，出発点がどうにも決まらない．
毬子も悪くないし，思い切って府中（静岡）まで足を延ばそうかとも思った．
しかし家族に話して出発するのでは楽しみは半減する．
ただひとことハイキングに行って来るとだけ言い残して家を出るのだ．
秘密行動には．時間とお金に限りがある．おのずと動ける範囲は絞られて来る．
色々思案の結果，浜松をスタート地点に選んだ．
しかし，実際の行動は, もっと刹那的だった．「ハイキングに行って来る．」
「はーい，気をつけてね」と家内．どこか近くの川原でも歩くのもと家内は思って いたようで，気持ち良く送りだしてくれた．
ここまでは成功だった．名古屋駅の新幹線切符売り場に立ち，自動券売機に一万円札 を入れた瞬間，また迷いが出た．料金表を見たら浜松も掛川も5000円以内なのだ．
同じことなら掛川が少し遠くて良さそうだ. そう思って掛川のボタンを押した．
【せこいプラン】
車中の人になってから反省が始まった．帰ったら家内になんて言おう．少なくとも 夕飯までには帰らないことには, 何を言われるか分かったものでは無い.
それに初日から往復で一万円は痛い. 帰りは在来線にしようか？
すでにせこいプランがさらにせこくなって行く．連休中の総予算は3 万円. 家族に許 される費用の極限と見切った予算だった.
帰りの選択は, もう決まった．名古屋を目指して歩く距離が多い程, 帰りの電車賃を 節約できる．その分家内の非難の量は軽減されるに違い無い.
それを励みに必死で歩こうと決意は固まった．気分だけは一日に４０キロでも，５０ キロでも歩けそうだった．
やがて新幹線は掛川を告げた．始めて下りる駅だ．
前置きはこれくらいにしてそろそろ歩き始めることにしよう．