「みじかくも美しく燃え」

　ずっとあこがれていた女性がいた．
　恥ずかしがり屋だった私は,いつも彼女を誘おうと思うのだけれど，実行に
移せないでいた．
　その頃女性にスマートに語りかける唯一の誘い方は映画鑑賞であった．
　だが，私がいつも見ていた映画は，昭和残侠伝，座頭市，眠り狂四郎，兵隊やくざと
いった大映の邦画ばかりだった．
　いづれもデート向きではない．
　そんなある日，街で見かけた映画の看板が霊感を与えてくれた．
　「みじかくも美しく燃え」か．良さそうやないか．これや！
　私は，これを選んで彼女を誘おうと思った．
　頭の中でデートに誘う瞬間を繰り返し練習した．

「ええが，いかへんか？」
「映画？」
「洋画や，どや？」わざと，悪っぽく．
　和製ハンフリーボガートが，イングリッドバーグマンに語りかけていた．
　霧深い空港のシーン．君の瞳に乾杯！

　それから，何度かチャンスはありながら，ずっと言い出せない内に上映期間が
どんどん過ぎていった．次の週末を逃せば機会がない．
　追い詰められて，眠れないほど悩んだが，彼女の顔を見ると，肝心な言葉が出て
こない．やっとの思いで，映画を見に行くとだけ伝えることにした．

「今度の週末映画を見ようと思ってるんです」
「どんなん？」
「あのー，看板見たんですけど．みじかくも美しく燃え」
「キャッハー！　自分，そんなん，似合えへん」
「・・・・・」
　神戸育ちの彼女は，相手のことを自分と呼んだ．
　
　言ってしまった手前，あまり見たくはなかったが，週末に一人で三宮へ出かけた．
　駅前のビルに大きな奇麗な映画館があった．
　バツの悪いのを我慢して入場券を買った．中に入ると，ぎっしリ若い男女が並んで
座っていて，もう映画は始まっていた．
　
　スクリーンでは，美しいヒロインが洗濯ロープを張って，綱渡りをしていた．
　もとサーカスの少女．哀しい性．練習しているのか，その方が幸せなのか．
　モーツアルトのピアノ協奏曲２１番が流れる．限りなく美しいシーン．
　軍人と美しいヒロインの恋の逃避行は，やがて資金不足に陥って行く．
　もうひとつの曲は初めて聞くバロック音楽だった．あくまでも美しい
メロディーが流れる．
　ヴィヴァルディのバイオリン・コンチェルト「愛」だった．
　恋の逃避行は，終わりに近づく．
　少女は自分の絵を売る．画商は，これは安くしか買えないよと言う．
　そうね．びっこの画家だったし．少女はあっさり言い値で承知する．
　絵の下にＴＲのサインが見える．

　隣のふたり連れも，他のふたり連れも，なんも分かっとらん．
　皆，映画館全体が，分かっとらん．
　そしてもし彼女と一緒だったら？
　私は高ぶった気分で独り言にふけった．
　気分はハンフリーボガード．隣にいるはずのバーグマンに語りかけていた．
「今ね．ＴＲとね．見えた？」
「さあ，よくわからない．」
「トゥールーズ・ロートレック」
「まあ，あのルーヴルの？」
「そう，ムーランルージュの画家．ハンコみたいなサインでＴＲ．ジャポニズム
の趣味だ．」

　映写室を出てからも，この発見が頭からはなれかった．
　あの絵はポスターじゃない．数少ないロートレックの肉筆画だ．
　高く売れたのに．
　「ＴＲ．トゥールーズ・ロートレック．」
　映画館のロビーで少し大きめの声で呟いたが，どこからも反応はなかった．
　気恥ずかしさで顔が赤くなった．

　彼女とその次に会ったとき，この映画を見たことを話した．

「ラストでね．ピストルの音がするんだ．
　少女はその時，蝶々を追っているんだ．」
「蝶々？」
「そうだよ．蝶々．日本のキチョウではなかった．もちろんモンキチョウでもない．
アポロチョウのようなウスバシロチョウだったかもしれない．ひょっとすると
ヒョウモンチョウのヨーロッパ種かもしれない．」

　大抵の女性は虫が嫌いだ．彼女も蝶の名前に興味を示さなかった．

「ロープを張って綱渡りの練習をするシーンがあって，それを目撃した人に
密告されちゃうんだ．」
「ロープ？」
「そう，あれは洗濯用だなー．向こうじゃ洗濯にロープを使うんだ．」
「竿竹ないもんね」
　その時にこっと笑って見せた彼女の表情に眼がくらみそうだった．

　ＴＲには触れない方が良かった．トゥールーズ・ロートレックが誰なのか，
彼女は，全く知らなかった．ばつの悪い空気が残った．

「ＴＲなんてサーカスの少女も知らなかったんだし，知らないのが普通だし...」
　ぶつぶつと言い訳のような慰めのような事を話していると，突然彼女が言った．

「自分，こんど緋牡丹博徒，見に連れてって．藤純子かっこ良いもん」　
　
　　1968年1月公開　東和配給．原題「エルビラ　マディガン」スウェーデン作品．